ハンコのコンキョは?

ハンコの要請は実は法律に基づくものは少なく、その多くが実務によって慣性的に作り上げたものです。ハンコの機能は本質的には「ID」ではなく「鍵」でした。ハンコをID類似のものとして惰性で使い続けるのではなく、ハンコの本来の機能を、デジタル技術を通じて、より高度な形で実現していく取り組みが求められます。

 これまでも、人類の歴史や文化は、パンデミックを契機に大きく変わってきた。では、COVID-19後の世界は、どのように変わるのだろうか。
 現在、身近な所で関心を集めているのが、日本の「紙とハンコの文化」である。感染拡大防止のためせっかくリモートワークを推進しているのに、わざわざ紙の書類にハンコを押すために、通勤電車に乗ってオフィスに出勤したり、役所に出かけてそこで「三密」に巻き込まれるのはおかしいではないかと。

 私は数十年前、そもそも紙やハンコの法律上の根拠がどの程度あるのかを学者の方々と調べたことがあるが、日本法の下では、特に「ハンコ」を明示的に要求している法律は、実はかなり少ない。そもそも、欧州大陸法系を継受した日本法では、契約の成立には基本的に意思の合致があれば良いので、「ハンコが無ければ契約できない」ということは、本来あまり無いはずなのだ。

紙の法的根拠とアクロバチックな実務対応

 ハンコに比べ、「紙」の方はまだ、法律に定めがあるものが散見される。例えば、民法550条の「贈与」(書面の有無により解除を行えるかどうかが変わる)、民法4672項の「確定日付のある証書」、さらに、民法466条2,3項として2005年に新設された書面による保証契約などである(ただし、これは当初から、電子的方式でも良いとされている)。
 そもそも「証券」は「券」と言うくらいであるから、もともとは紙であることが前提であった。だからこそ「紙の占有の移転」によって権利が移転していたし、「持参人払い」や「呈示」といった概念も生じるわけである。
 しかし、さすがに取引の高速化が進む中、紙をやり取りしていたのではとても間に合わないので、実務レベルではかなり昔からデジタル化が進んでいた。しかし、日本の実務レベルでの対応力や柔軟性は、しばしば抜本的な対応を遅らせてしまうことがある。
 証券の場合、「大きな紙でできた証券(大券)が中央で保管されており、その持ち分が占有改定(民法183条)や指図による占有移転(同184条)で移転する」という仮想に基づく、かなりアクロバチックな解釈論により、デジタル化への対応が図られていた。しかし、このような対応は、グローバル化のもとでは、維持することが徐々に難しくなる。既に証券のデジタル化に対応した法改正を行った国々で発行された証券を日本で取引する場合、法的安全性の問題が生じてしまうのである。もともとデジタル化している証券にはもはや「大券」を仮定することが難しく、「占有」という概念自体が考えにくくなるからだ。結局、「大券」による対応は長続きせず、日本においても結局、証券の完全デジタル化に対応した法整備が行われることになった。

 現在、証券以外の分野でも、紙の省略を可能にする制度整備は徐々に進んでいる。例えば、「確定日付のある証書」については、電子的な情報に電子署名をすることで、この条件が満たせるようになっている(民法施行法第5条第1項及び第2項)。

ハンコの法的根拠

 一方、「ハンコ」については、民法の中には実は記述がない。頑張って探すと、民事訴訟法2284項、商法3693項(取締役会議事録)、刑法159条(有印私文書偽造)などがあるが、2001年に成立した「電子署名法」などにより、「法的に絶対にハンコがなければいけない」という取引は、今では少ないはずである。

 「ハンコ」の根拠は実ははっきりせず、行政も含め、従来からの慣習がそのまま続いていることによるものが多い。例えば、民法739条の「婚姻の届出」では、婚姻届について「当事者双方及び成年の証人2人以上が署名した書面で」と記されており、押印については民法では記載がない。一方で法務省のホームページには、「婚姻届書には,成年の証人2名の署名押印が必要です」と書かれており(離婚届も同様)、各自治体は基本的に、これに沿って事務を構築してきたということであろう。

ハンコの実態的根拠

 では、法律上の義務ではないハンコが実務上要請されてきたのはなぜだろうか。
 ビートたけしさんは、その「離婚体操」で、「ハンコ、ポン!シャチハタ、ダメ!」という掛け声に合わせて体操をしているが、逆に言えば、婚姻届や離婚届は現状でも認印で良いのであるから、ハンコは本人確認やIDの役割は果たしていない。また、別途パスポートや運転免許証などで本人確認は行っているのであるから、ハンコは本当は要らないはずである(むしろ、シャチハタだけダメという理由の方が謎とも言える)。
 このようなハンコの意義については、「重要な決定に際し、慎重な判断を促すため」といった、法律論とは別の説明が行われることが多い。しかし、そもそもこのような心理的・文化的要素を行政手続の中に持ち込むのはどうかと思うし、役所に本人が来て届けを出すことで既に慎重な判断は促されている訳であり、更にハンコを要求してどうなるものかも疑問である。また、自治体の中には、「押印の習慣のない国の人は署名のみで結構です」と明記している所もある。

ハンコは「ID」ではなく「鍵」であったはず

 新型コロナウィルスを経験した社会は、「リモートで可能な事務はリモートで」という方向に、ますます進んでいくだろう。そして、そのような構造変化に対応できる制度となっているかどうかが、これからの経済の成長や発展を左右していくことになる。

 ここで前回同様、昨年訪問したエストニアの例を若干紹介すると、エストニアでは結婚・離婚・不動産取引を除く行政手続の99%がオンラインで、1365日、124時間、いつでも可能である。もちろん、オンラインでも対面でも、「ハンコ」は全く介在しない。オンラインならハンコはそもそも「使えない」し、本人が役所に来る場合には、全国民共通の写真付きIDカードで本人確認を行っているので、ハンコは「必要ない」からである。

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(出典)E-estonia

 英米法上の「捺印証書(Sealed Deed)」が示すように、ハンコの法律上の英訳は"Seal"であり、そのもともとの意味は「封蝋」である。すなわち、ハンコの本来の法律的趣旨は「ID」ではない。契約や文書の内容を特定の時点で確定させ、その後の改ざんができないようにすることにあり、むしろ「鍵」である。

 もちろん、ハンコの美術的な意義などを否定するものではないが、少なくとも行政手続やビジネスの領域で、ハンコを本来の趣旨から離れて「何となくID代わりに」使い続けることは生産的ではないだろう。むしろ、「合意内容の事後的な改ざんを防止する」という、本来のハンコの機能をより優れた形で発揮できるデジタル技術の活用を考えていく方が、社会にとって望ましいといえる。

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